「あら、いらっしゃい、フーゴくん」

町外れにある、店の半分が地下に位置するこのカフェは隠れ家のような雰囲気で、実際に見つけづらいのか入りづらいのかいつだって客足はまばらだった。初めてここを訪れたのは偶然で、たまたま通りかかった時に中から悲鳴が聞こえたから。めんどくさいので関わりたくはなかったが、ブチャラティが先に入ってしまったのだから仕方がない。悲鳴をあげたのはこのカフェを1人で経営している日本人のという女で、その原因はカップルの痴話喧嘩がエスカレートして殴り合いになったことだった。

ブチャラティの仲裁で落ち着きを取り戻したカップルはさっきの勢いはどこへ行ったのかと言う和やかなムードで店をあとにした。そして、はらはらした表情で見守っていた店主のが、「ありがとうございます、あの、よろしければお茶でもしていきませんか?」なんていうので、お礼を受け取っておいた方が相手の気が休まるだろうというブチャラティの判断で腰を下ろした。

その時に飲んだエスプレッソが、今までの人生で口にしたもので最もおいしくて、そして一緒に出てきたケーキも今までの人生で最もおいしいケーキだった。簡単に言えば胃袋をつかまれたのだとフーゴは思っていたけれど、それに何か思わせぶりな笑みを見せたのはブチャラティだった。あそこのエスプレッソが好きなだけです。そういうのは妙にムキになっているようで言葉にできず、かといって誤解されたままというのも居心地は悪かったが、誤解したブチャラティは気を使ってかチームのメンバーにこの店のことを話さなかった。結局1人でここを訪れることができるのだから、まあ誤解されたままでもいいのだろう。





「こんにちは

フーゴの席は決まっていて、入口を入ってすぐのカウンター席。レジのすぐ横のその席は人通りが多く落ち着かないのか、ときどき店内が客でいっぱいになるようなときでも最後まで空席であることが多い。今日もあいているそこに腰掛ければ、は「いつものだよね」と言いながらカップを取り出してエスプレッソの用意を始めた。

「この時間に来るってことは、今日はお休みかな?」
「はい。今日は久しぶりにすることがなくて」
「予定がないのは良いことだね。はい、どうぞ」

差し出されたカップに口をつける。じわりと広がる苦味はフーゴの好みにぴったりあっていて、初めて飲んだ時から変わらず、まるで昔から自分の好みを知っていたかのような味だった。

「最近は、なんかあった?」
「いえ、特には何も…。ブチャラティが相変わらず街の人にモテていて、いろんなものをもらってくるくらいしか変わったことは起きません」
「ブチャラティさんね、良い人だもんね。好かれるのわかるなあ」

私もブチャラティさん好きよ。屈託のない笑みになぜか胸がチクリと痛む気がする理由がフーゴにはわからなかったけど、僕も好きですと答えればその一瞬の違和は消え去った。

「優しすぎるんです。この前のりんごだってそうだ」
「食べられないのに山盛りにもらっちゃったんでしょう。でもあれ嬉しかったわ。限定メニューのアップルパイ、人気だったんだから」
「それはよかった。伝えておきます」





なんでもない会話をする穏やかな時間だ。入店したときからまばらにいた客は出て行って、また新しい客が入って常連らしきその客とが話したりするのを聞きながら本を読んでいると、気づけばもうすっかり時間がたっていた。途中何度かおかわりの出て来たエスプレッソも今は空っぽだ。

「すっかり長居してしまってすみません」
「いいのよ、暇だから」
「そういえば今日は人が少ないですね」

大賑わいということはない店だけれど、いつもならもっと人はいる。今は店内にフーゴしかおらず、もうすぐ夕方になるという時刻にしては明らかに人が少ない。

「…こんな日は、もっと良いお店に行くんじゃないかしら」
「今日…なんかありました?」
「……フーゴくん、お腹すいてる?」

返答としては流れのおかしい会話だったが、まあまあ、と答える。するとは少しだけ躊躇ってからキッチンの奥に消えていった。少しして、お皿にのせられたデザートが出てくる。

「いちごブラウニーなんだけど…もしよかったら」
「めずらしい。新メニューですか?」

黒いブラウニーの上にはホイップクリーム、その上にはいちごがのっている。いちごのソースで飾られた皿の上の模様はハートが連なったような柄で、試作品にしては随分と凝っているように見えた。

「…フーゴくんにね、食べてほしいなあって思って」
「あれ、僕今日来るって言いましたっけ?」
「ううん、だからもし今日来てくれたら…そのときは、って」

食べてみて。カウンターから出てきて隣に座ったは、まだ営業時間中だというのにだらりとカウンターに腕を伸ばしてフーゴを見上げた。フーゴは別にいちごが好きというわけではなかったしそう言ったこともなかったが、きっと服装からいちごを連想したのだろう。濃厚なブラウニーはフォークを差し込む抵抗が強くしっとりとしていた。いちごのソースを掬って一口食べると、ブラウニー自体にもいちごが混ざっているようで、甘酸っぱいそれは一緒に出てきた濃いエスプレットととてもよく合う。

「…どう?」
「美味しいです、絶対人気でますよこれ」
「ううん、それはフーゴくんにだけ」

伏せた状態から上目づかいで見つめてくるは、フーゴより10は年上の女性だ。それなのに、どうしてこんなに可愛らしいなんて思うんだろう、と思ってしまってフーゴの手は止まった。

「な、んで」
「今日はね、バレンタインなんだよ。フーゴくんに会えるのは君がふらっとここに立ち寄ってくれるときだけだから、食べてもらえるかどうかは賭けだったんだけど…」

確かにフーゴはと連絡先を交換するような仲ではなかったし、がアジトの場所を知っているわけもなかった。

「食べてもらえてよかった。ねえフーゴくん、日本のバレンタインは知ってる?」
「まあ、なんとなくは」

口の中に広がっていた甘酸っぱさがきえなくて、フーゴは手に持っていたフォークを皿に置いた。伏せたままこちらを見上げているの頬は多分店内に差し込む夕日のせいだけではなく少しだけ赤くて、それでも余裕を感じさせる笑顔は彼女との歳の差を感じさせた。

「それね、本命なんだよ」

微笑んでいた目をいたずらっぽく一層細めて笑うの表情が、フーゴの胸をぎゅうと締め付けた。…ああ、時々といるときに少しだけ苦しい気がしていたこの感覚の正体が、やっとわかったような気がする。



しっとりいちごブラウニー

(こんなに甘ったるい感情は、きっとはじめてだ)